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​《総合古武道》 正伝十二騎神道流とは

​武の神を祀る鹿島神宮・香取神宮が創建された頃から多種多様な流派が鎬(しのぎ)を削り、勝つ為の武術が発達し、古武道(古武術)は伝承されてきました。

​先人たちが戦国の刃の下を掻い潜りながら 磨き編み出してきた技の多くは天下泰平の江戸の世に消え去っていきましたが、その中の幾つかは日本各地にて 限られた地域や一族のみに伝えられる御留(おとめ)流として伝承されていきました。

下総国の神道流を源流とするこの古武術も、江戸のはじめより幕府の中枢を担い日本各地また上総下総といった両総(*)の地を治めてきた譜代の武家一門に脈々と伝承されてきたものです。

 

将軍家康を補佐し大阪夏冬の陣や島原で指揮を執った流祖をはじめ、職責上、幕府の軍遣・上遣を務めることも多かった家柄故に、敵陣から生きて帰るために発達した 多敵に対する流れるような刀遣いと、戦に於いて敵方の戦力を削ぎ、戦の後の治世までをも見据えた軍略的裏技が鏤(ちりば)められたこの家独自の兵法は、永きに亘り門外不出の御留(おとめ)流として家門に受け継がれ現代に至りました。

【総合古武道 正伝十二騎神道流】とは

先代 伊藤武一郎先生より技の道統を継承した高倉英二が、家伝の御留流古武術群に自身が習得していた琉球唐手(今は幻となった真屋里流)などを加え、総合古武道として「十二騎神道流」と名称を変更。

時代から消えつつある武士本来の在り方と古流の技の数々を、広く今世に伝えていくこととしたものです。

*)両総地域に於ける一族の領地は、主に現在の東金を中心に匝瑳・旭・銚子・香取にかけての一帯にありました

大成武鑑

​武家の家紋は代表的なものの他にも複数あり、同族でも紋の使い方が少しづつ異なります

元禄武鑑.jpeg

​元禄頃までは家紋の巴は右に巻く右巴が使われていましたがいつの頃からか対外的には左巴が定着したようです

寛文11年の東金拝領以来、此の地に残った一族は今も変わらず右巴を使っています

旗指物其他武器類略図

当家の『旗指物其他武器類略図』
およそ50点の旗指物や陣中または道中で用いられる諸道具や武具の類を網羅して書き記してあるもの

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